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昭和のあの頃の住まい--1

今年は今頃まで何故か仕事が続いて、更新が間延びしてしまいました。このブログで、朽ち果てたようなところばかり巡って記事を書いていたら、私が幼い頃に住んでいた住まいがどんなだったか、あれこれと思い出すようになってしまいました。すると、その時代の記憶はかなり薄らいでいてつじつまの合わないところが沢山あることがわかりました。四歳の子供の記憶。色んなことを覚えていますが、住まいとなると細部はまるで覚えていないようです。


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そんなことで、記憶を辿りつつ簡単なソフトで3Dを作っているのですが、これとて昔にちょっと齧った程度で操作を思い出すのが大変。ようやく箱の形だけ作れました。以前ゴミ山の記事で書きましたが、アパートは大阪城東区の古市というところにあって、元は軍関係の何かを作っていた工場だと随分後になって聞かされました。それを改造して向かい合わせ二階建てのアパートになっていたのでした。と言っても二階は屋根裏を利用したかなり変則だったと記憶しています。




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部屋は廊下を挟んで四つ並んでいて私たちの部屋は端っこでした。並びの外側の部屋だけに窓がありました。間ふたつの部屋には流しの前の窓しかなかったと思います。

部屋は三畳間と四畳半だったと思います。もしかしたら奥は六畳あったかも知れません。そしたらちょっと伸ばして作り直さねばなりませんが、記憶は四畳半だったように思います。

押入れがあったような記憶がないのです。布団はたたんで積み上げていたように思います。しかしあったかもしれません。その場合隣りとの関係で部屋がどうなっていたか、ちょっと割り振りが合わない気がするのです。こういう造りの部屋がとにかくよっつ並んでいました。トイレは勿論ありません。廊下を抜けた広場に集合共同トイレがありました。その形も朧ですがおいおい作ってみたいと思います。


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流しはあったように思うのですが、ガスはありませんでした。この時代から何年もして--水道完備ガス見込み--という歌が流行りましたので、それが売りになるくらいだからない所も普通にあったのです。

火はどうしていたかというと、石油コンロの小さいのがあって、それで煮炊きをして、三畳の部屋に卓袱台を置いて食事をしました。当時もっともなごちそうはクジラのカツでした。兄の好物でしょっちゅう食べたがっていました。私は幼い頃は何故か肉気が全然ダメで、後にはソーセージも食べられない程で苦労しました。当時のソーセージは今と違って嫌な臭いと風味がしました。あとはどんなものを食べていたのか、もうまったく覚えていません。私には食事が楽しいという程の記憶がないのです。何を食べてもあまりおいしくなかったのじゃないかと思います。楽しみは玉子焼きくらいだったかな。今では信じられないでしょうが、弁当に玉子焼きが入っているだけで上流だったのです。

この時代はテレビはもちろん扇風機もなかったのでして、夏は窓と玄関を開けて寝ていました。どの部屋もそうでした。そういう状態だったので、何故か二階の部屋に住む遊び仲間のガキタレが部屋に忍び込んできたことがあってビックリしました。子供が寝ぼけたのだろうと言うことで事件にはなりませんでした。当時はたいていどんなことも事件にはなりませんでした。

食事が終わったら、何しろテレビはないし当家はラジオもなかったのですることもなく寝るのですが、卓袱台を片して、兄がこの三畳間で寝ていました。私は父と母の間で寝ていました。兄だけ離れて寝るスタイルがこのころからずっと決まりになってしまいました。今振り返ると不思議なことだと思います。齢は六つ離れていました。

絵と写真の記事の合間に少しずつ思い出して書いてみようと思います。


Commented by 3740s at 2024-12-24 16:34
こんにちは

遠い子どもの頃を思い出しますね。

狭いながらも暖かく厳しい触れ合いが。
Commented by yumewomitamae at 2024-12-24 21:01
> 3740sさん
こんばんわ。
その辺の御年齢でしょうか。
振り返るにつれ、人は健気に生きていたと思います。
貧しいというのも、そんなに悪いことじゃないかもですね。
by yumewomitamae | 2024-12-24 13:12 | 人生 | Comments(2)